写真館 新館->

 

32.さようなら OS11

昭和56年3月1日の長野線地下化(長野〜善光寺下間)は長野電鉄の車輛の顔ぶれを大きく変化させるものでした。それは、この区間が「A基準」による車輛(新造車はA−A基準)でなければ走らせられない、ということになっているのですが、多くの在来車がその基準を満たせないことから、2000系(特急車)12輌と0系(OSカー)4輌、屋代線専用の1000系・1500系5輌を除く車輛については置き換えを計る事になりました。そこで導入されたのが東急5000系を譲り受けた2500・2600系でした。本来ならば、2500・2600系の配備だけでよかったのですが、「一大事業にあたってなんとか新造車を」という会社側の強い思いがあってこの新OSカー10系が製造されました。

登場後は全線に渡る活躍をしてきましたが、本線系列車のワンマン化の際にOS11のみがワンマン化工事を受けず、結果として平日朝のラッシュ時(ツーマン運転時)のみの運転となってしまいました。

ワンマン化されなかったこと、1形式1輌であることが災いして(木島線廃止で3500系に余裕もあるし)、「合理化」のために長電で最も新しい車輛にも関わらず引退・廃車されることになりました。

(1) 〜2月28日

平日の208列車(須坂7:46〜8:14長野)、205列車(長野8:24〜8:51須坂)が唯一の活躍の場でした。引退発表の後から定期運用最終日までの記録。

(2) 3月1日

さよならイベント1日目。定期列車の運用変更という形で、須坂〜屋代〜須坂〜信州中野〜長野〜須坂と運転されました。この日は雨天。

(3) 3月2日

さよならイベント2日目。臨時列車として、須坂〜屋代〜須坂〜湯田中〜長野〜須坂と全線で運転されました。小布施では撮影会やさよならセレモニーなどが開催されました。

 

<< BACK --- NEXT >>